2016年1月14日(木)

神はサイコロを振らない

私は、それほど、専門的な物理学は履修してなく、高度な物理学としては、大学時代に、量子力学の授業を受けた程度ではあるので、物理学の専門家や、それを職業としている人から見たら、素人に当たるのかもしれませんが、それを承知の上、書きたいことを書いてみたいと思います。

「神はサイコロを振らない」
これは、相対性理論や、光電効果などを発見した天才物理学者である、かの有名なアインシュタインの言葉であります。

物理学の世界では、物質の大きさにより、物質そのものの振る舞い方に大きな違いがあるのです。

はじめに、高校で物理を勉強すると、大きく分けて、主に、二つのものを学びます。
それは、「粒子」と、「波」です。

「粒子」の運動は、主に、運動方程式、F=ma(F:物体にかかる力、m:物体の質量、a:物体の加速度)に従い、運動量保存の法則や、エネルギー保存の法則などがあります。
「粒子」の運動では、個体としての「物体」などを扱います。

また、「波」は波動方程式などに従いますが、波動方程式を扱うのは、大学の教養課程であり、高校レベルでは「サイン」、「コサイン」関数を使った、簡単な方程式を学びます。
そして、とりわけ、「波」の分野で大事なことは、「波」は干渉するということであります。
また、「波長」が異なる「波」同士は、干渉しない(厳密言えば、波長が大きく異なる程干渉しなくなり、波長が近くなる程、干渉するようになる)、ということであります。
「波」の分野では、「音」や、「光」、「電磁波」(※光も電磁波である)などを扱います。

そして、通常の大きさの世界、マクロの世界、日常生活で関わりのある大きさの世界では、「粒子」は「粒子」として振る舞い、「波」は「波」として問題なく振る舞っておりました。

つまり、これを古典物理学と言いますが、普通の大きさの世界では、「粒子」は「粒子」として、「波」は「波」として振る舞い、扱えば問題がないように思えました。
※電磁気学(古典物理学)には、粒子も電磁波も出てきますが、粒子は「粒子」として、「電磁波」は「波」として、分けて取り扱っている。
※また、高校レベルの「電気」の分野では、電流を「電子」という「粒子」の集団の流れとして扱っており、一部「交流」などで、「波」として扱うが、あくまで、電子は「粒子」として、交流の性質は「波」として、分けて扱っている。

しかし、ミクロの世界、電子などの素粒子の世界をしっかり見てみると、そこは今までとは違った世界が広がっていたのです。
それは、今までは「粒子」は「粒子」として、「波」は「波」として、住み分けられて存在していたのに、「粒子」があるときには「波」として振る舞ったり、「波」があるときには「粒子」として振る舞ったりしたのです。
その分野を扱う物理学が、「量子力学」であるのです。

それでは、「粒子」が「波」として、また、「波」が「粒子」として振る舞うとは一体どういうことか?

それは、「塊」だったものが、「広がり」、「広がっていたもの」が「塊」になるということです。正直申しますと、ここのメカニズムはいまだ解明されておりません。そうであるので、「量子力学」は、その分かっていないことを分かっていないものとして、ある意味「あきらめ」て、ある時に、ある場所に、「塊」が存在する「確立」を方程式を立てて扱っているのであります。

その「確立」を用いて議論するところを、
アインシュタインは、「神はサイコロを振らない!」と批判したのです。

しかしながら、この「確立」によって理論立てられた「量子力学」によって、半導体素子は作られ、パソコンも動いているのです。
結果良ければ全てよしということなのかも知れません。

でも、未来の物理学は、必ず、この「粒子」が「波」であり、「波」が「粒子」であるという命題、壁にぶち当たり、これを解明する必要性が出てくるものと考えております。
そして、その先に新たな、物理学の未来が拓かれていくのではないでしょうか。

Faust