2015年11月10日(火)

〈マーケティング論⑥-マーケティングで見る全体主義国家〉

ここでは、少し政治的な話をしてみたいと思います。
全体主義国家とは、基本的に独裁制を敷く国家であり、単一の人間や、単一の政党などのある特定の集団ないしは、人間のコントロール下に国民が管理され、それに従わないものは、政治犯収容所などの刑務所的なところに入れられ、弾圧を受ける、いわば一種の恐怖政治を敷く政治体制であります。

代表的なのは、旧ソビエト社会主義共和国連邦や、ナチス・ドイツ、北朝鮮、共産党一党独裁体制の中華人民共和国などです。

このブログで、ある特定の国家を批判するつもりはありませんので(もちろん国民の弾圧・抑圧などには断固反対であるし、民主主義国家、資本主義・自由主義国家を支持はしますが)、
今は、経営の話をしているので、経営特にマーケティングの観点から、考えてみたいと思います。

そもそも、この章を書こうと決意したきっかけは、度重なる、中国製製品・商品の不誠実さに「呆れてものも言えない」と感じたからであります。

先ず、一つは、新しいスマホ用で事前にクリアケースをアマゾンで購入したのですが、それを購入して初めて気づいたのですが、「Made in China」でありました、別に、いい製品であれば問題ないし、こんな章は書かなかったんですが、それが、「薄っぺらい子供のオママゴトのおもちゃか!」言うくらいの品質のものでして、届いて、箱開けるやいなや、ゴミ箱に捨ててしまいました(笑)。

また、私の勘違いかもしれませんが、あるところから購入した乾燥野菜のスナック菓子、表示を見てみたら、野菜が中国産でして、加工はどこかわかりませんが、
食べたら、吐きたくなるくらいまずい野菜が混入されてまして(野菜特有の苦さなどではなくて、腐っているような感じ)、全て捨ててしまいました。

このようなことが続くと、中国製に「不信感」を抱いてしまいますよね?これは、「感動」とは正反対のものを顧客に与えていると思うのです。そのような企業は繁盛するはずはないと思います。

これは、ハイエクの著書「隷属への道」(春秋社、F・A・ハイエク著)の中にもあったのですが、自由競争経済は、社会に道徳的なものを浸透させる的なことが書いてあった記憶があります。それは、おそらく、正しい宗教的価値観が浸透している自由競争経済社会の中の話ではないかと思いますが。

中国は、政治的には共産党一党独裁体制ではありますが、経済的には、自由経済(全部ではないかもしれませんが)のはずなんですけどね。

「経済」とは、「経世済民」(ウィキペディアより:中国の古典に登場する語で、文字通りには、「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」の意)と言いますが、
政治体制と親和性のある経済体制というものは、やはりあるのかもしれませんね。

政治的に独裁体制では、いくら経済体制は自由経済になっても完全にはなりきれない。
だからこそ、ハイエクが言うような、自由競争経済によって、社会に道徳観が浸透することができないのかもしれません(その前に今の中国に正しい宗教的価値観が浸透しているかどうかはまた議論の余地はありますが)。

やはり、民主主義に親和性があるものは、自由主義経済、
そして、全体主義、共産主義に親和性があるものは、計画経済なのかもしれませんね。

経済行為とは、様々な経営資源、物、お金、人、
そして、“情報”が自由に行き来するからこそ機能するものであります。
だからこそ、市場価格というものも決定できると思うのです。

旧ソビエト連邦は、情報の公開、開示によって瓦解、崩壊してしまいました。
全体主義国家というものは、基本的に体制に不利な情報を封殺ししなければ崩壊しますから、自由な情報の行き来もできなくなりますよね。
だから、真なる自由主義経済も存在できないし、そうなると、顧客のことを考えて、物なりサービスなりを売ると言うような発想、マーケティングの発想はなくなるのだと思います。

Faust