2016年1月14日(木)

結局は、何もわからないという事実

なかなか、人間というものはやっかいな生き物である。

結局は、ただ一人の人を理解するだけでも、なかなか大変で、たとえ長年連れ添った夫婦であっても、一人の人間として、相手を完全に近いするということは不可能なのではないか?

相手の、好きなもの、嫌いなもの、今考えている事、今欲しいものはもちろん、自分自身でさえも、自分の今欲してるものがわからなくなることがある。

そう、自分自身でさえも、完全に自らを理解するのは難しいのである。

それは、経済の世界でも同じことが言える。

ある人物が今欲するもの、今買いたいもの、未来に生じる欲求、それを第三者が理解し、把握し、それにあったものを供給することは不可能である。それは、自分自身についても、未来に欲しくなるであろう物を現時点で把握することも不可能であるからである。
※ただ、自分自身の未来の欲求に対する予測は、他人に対するそれよりも、当たる確率が高い。

つまり、何をどれだけ生産し、どの程度売れるか?という方程式に対する解、答え、一般解としては、「わからない」ということが答えである。

それは、経済が扱うのは、人間であり、人間は、ただ一人だけを考えてみても、不確定要素が多すぎるからある。
その不確定表素とは、その人の所得であり、家族構成であり、現在の私有財産の量であり、年齢であり、今日出会う人、今日起きる出来事、今日の血圧、体重、現在の気持ち、そして、本日の気分などである。

そして、例えば、血圧が10高かったり、不愉快な人に出会ったり、また、非常に嬉しい出来事が起きたり、外が雨だったり、晴れだったりなど、これらのどれか一つが異なれば、派手なスーツを買う予定だった人が、地味なスーツを買ってしまったり、そもそもスーツを買うのをやめてしまったりするのである。

ここで、自由市場経済とは、それは、計画経済の反対ではあるが、「結局は、他人のことはわからない」という需要と供給の方程式に対する答え、解を前提とした経済体制なのである。

そう考えると、「計画経済」というものは、むしろ、その方程式の解を無視した経済体制であり、「結局は、他人のことはわからない」ということが「わかっていない」経済体制なのである。
つまり、その方程式の解に従わないということは、その結果は、間違うということであり、それは、逆説ではあるが、「計画経済は無計画」ということになるのである。それは、「結局は、他人のことはわからない」という事実に従って創り上げる経済体制の方がむしろ、普遍の真理に根差しているということで、よっぽど「計画的」であると言えるのである。

つまり、ハイエクはそのようなことが言いたかったのではないかと思いました。

Faust