2015年10月22日(木)

みなさんも、経験があると思いますが、
小さい頃、自転車に初めて乗った時は、そう簡単にバランスをとってうまく乗れるわけではありません。

その時に活躍するのが補助輪であります。
補助輪を自慢の自転車に取り付ければ、初心者の子供でもバランスをとって自転車を乗り回すことができるのです。

しかし、ずっと大人になるまで補助輪付きで自転車を乗るわけにはいかないし、補助輪を付けたままではスピードも出せず、遠くに行くのも難しい。

そう、いつか、その補助輪を取り去り、転びながらも何度も練習し、補助輪なしでバランスをとって乗れるようにならなければ、自転車を乗ることの喜び、自転車に乗ることで可能になる様々な恩恵にあずかることはできない。そして、より遠くに行くこともできないのです。

補助輪を付けて乗っている子供は、その補助輪付きの自転車は機動性がいまいちであるので、自らの置かれた状況に若干の不快感を感じながらも、転んでケガをするよりはマシであるし、歩くよりは早く、走るよりは疲れないので、その状況に安住しようとする。

そこから、勇気をふりしぼり、親父に補助輪を外してもらい、何度も転倒しながらも自転車を乗れるようになると、全く違う世界を見ることができるのです。
そして、今まで、補助輪を付けていた、あの不自由さの中にいた自分が信じれなく思うほど、自由な世界に羽ばたけるのです。遠くにも、早く行くことができるようになるのです。もう補助輪に戻ることはできなくなるのです。

これは、私が小さい頃経験した、自転車に乗れるようになるまでのことを振り返ったものですが、皆さんもこのような経験があるのではないでしょうか?
そして、比喩的に、この補助輪付き自転車に乗っている自分に満足し、補助輪を外し、勇気を出して新しい世界に踏み出そうとすることを拒んでいるということが、世の中には多々あるのではないでしょうか?

それは、現状の、ぬるま湯に浸かった環境に満足し、また、満足しないまでも、このぬるま湯から出ても、外に自分の洋服があるのかも分からないし、そもそも、外の世界はもっと寒い世界かもしれない。そう思うと、そのぬるま湯からなかなか出られないということがあるのではないでしょうか?

しかし、いつしか、そのぬるま湯は水風呂になってしまうのです・・・キャー冷たい!!笑

Faust